ばっちゃんが言ってた

 私が10歳前後の頃、飼っていた猫が死んだ。
 捨て猫だったのを母が拾って来た子で、当初から身体が弱かったから、 いま思い返すとうちにいたのはほんの2〜3年だったかもしれない。

 家族みんなで可愛がっていたその子が死んだ時、 私は初めて「死」という取り返しのつかないモノの存在を実感したように思う。
 とにかく泣いた。
 あまりにも泣くので見兼ねたのであろう、祖母が私にこんなことを言った。

 動物はね、あんまり悲しみすぎると、畜生道に迷って成仏できなくなってしまうんだよ。
 だから、お弔いをしたら、それで忘れてあげるのがいいんだよ。

 いま考えると、仏教的にどうなのそれ、と思わなくもないが、当時の私には響いた。 死後にまで迷うというのが、途轍もなく寂しく感じられたのだ。
 しかも、身体が弱くてしょっちゅう病院通いをしていた猫だ。 それが、私が悲しみすぎるせいであの世に行かれなくなってしまうかもしれないという。

 それはちょっと勘弁してほしいかも……
 そう思った私は、泣くのをやめた。
 これであの子も天国に行かれるかなと思ったら、少し心が軽くなった。

 そうして、祖母の言葉は私の心に深く根を下ろした。

 母が亡くなった時、お坊さんのありがたいお説教(本当にありがたかった)を聞いて、 なるほど弔いというのは残された人の気持ちに区切りをつけるために、 生きている人間のためにするものなのだなぁとしみじみ思ったものだが、 祖母の言葉も結果的に同じ効果を私にもたらしたということになるだろう。 ……と言ったら、専門職のお坊さんに失礼だろうか。でも、通底している部分はあると思うのだ。

 とにかくそういった次第で、私は動物の死に際していつまでも悲しみを引きずらないよう心がけている。 いつまでも可哀想可哀想と悲しむのでは、それこそ可哀想だと思うのだ。負のスパイラル的な意味で。
 うちで飼っていた猫も、犬も、鳥も、水族館で出会った生き物たちも、もちろん忘れることはできないけれど、 過剰には悲しまない。引きずらない。
 それが私自身にとっても、死んでいったものたちにとっても、最良のあり方だと思うのだ。

 ただ、あれは祖母の死生観というよりは、ただ私を泣き止ませるためだけの言葉だったと思わなくもない。 その場の思いつきだったことは大いにあり得そうだ。今となっては確かめる術はないけれど。
 しかし、いずれにせよ、とても良い「死との向き合い方」を伝授してくれた亡き祖母に、私は感謝している。

 余談だけれど、私は祖母のことは本当は「ばっちゃん」ではなく「おばあちゃん」と呼んでいた。へへ。

2012.01.18